世紀末の詩

2002年8月6日
今日は愛だの恋だのについて述べます。嫌いな人は読みとばしてください。

ハローベイビー
心が壊れてしまうのは
いつか君が僕だったからさ
そして僕が君だったからさ

竹之内豊主演のドラマ「世紀末の詩」を小説化した本を今読んでる。そのある種脆くも絶妙なバランスが、完璧ともいえるストーリーを紡ぎ出している。1話1話が評論でいうところの具体例に当たり、全体で一つの大きな主張、流れを形作っている。

読んでいくうちに、はっと目が醒めるような思いがした。おおむね本を読んでそういう体験をするというのは、実体験として思い当たるところがあることが多いと思う。つまり恋愛をしたことがない人が、恋愛小説を読んでもいまいちピンとこないのと同じである。
これは本だけに限ったことではない。泳ぐのが嫌いで苦手でどうしようもない人に水泳の楽しさをいくら熱弁したところで、「ふーん、そういうもんなんだ」というふうに、言葉の上では伝わるかもしれないが、実体験がなければ、真に理解することは不可能である。

それでは、私が体験した「目が醒める思い」について書くと、それは「愛とは」ということである。それはとりもなおさずこの小説の主題である。
ここに書いていいのか、秘密日記ならいいのか、それとも書かないほうがいいのかはわからないが、この小説での定義に基づけば私は人を愛したことはない、と言えるだろう。恋ならあるが。さらに言うと、愛に近づいたことはある、と思っている。いつも長続きしないけど(苦笑)

では、それならば「愛とは」ということに対しては思い当たるところはないのではないか、ということになるだろう。しかし、確かに、自分の体験としては思い当たるところはないが、他人の体験として、ある意味限りなく自分に近いところでの体験として知っている。もっと言ってしまえば、その他人の体験を、自分の体験として感じていたと言えるだろう。

その体験を、言葉にして表してくれたのが前記の小説である。その一節を引用する。もちろん無許可。

『愛とは恋のように思い出にもできず、失えば誰かを好きになる回路すら奪われるものであり、瞬間にして永遠で、疑わず、あきらめず、そして喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、救われるものだと。恋する人と出会い、長い時間をかけて魂が寄り添うことなんだ。それが愛なんだ。誰もが手に入れられるものじゃない。まして、生まれながらに持ってるものなんかじゃない』

以上は第九章「僕の名前を当てて」からの引用である。ドラマを見ていた人は覚えているだろうか、ノストラダムスの話のところである。

そして、この部分だけではなく、処々にエッセンスが組み込まれており、読んでいくうちに核心が見えてくるように感じた。

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