合格発表

2002年3月6日
なんと受かってしまったようです。

長いエスカレーターを上りながら、いろんなことを考えました。落ちてたらその足で後期の赤本買って勉強しようとか、もしかすると発表見て発狂してしまうんじゃないか、とかね。

その中で、良かろうが悪かろうがリアクションは取らないことを心に固く決めました。あくまでポーカーフェイスでいよう、と。

なぜならば合格発表の場には落ちた人も受かった人もいるわけですよ。それなのに大喜びする受かった人を見て落ちた人はどんな気分になるでしょうか。また悔しさに涙を流す不合格者を見て合格者はどう思うでしょうか。

どこの大学でもそうなのでしょうか、合格発表の掲示板の前にはアメフトのユニフォームを来た学生たちが合格者を今か今かと待ち構えており、それを脚立の上から大学専属カメラマンが狙っていました。

胴上げされる受験生。
一緒に写真を撮っている受験生。

そんな中、私も自分の受験番号を確かめるべく掲示板を見上げました。…あった?確かにそこに私の受験番号があり、手元の受験番号の控えと照らし合わせて確認したはずなんですが、頭の中がどうもぼんやりして思い出せません。冒頭の「受かってしまった『ようです』」というのはそういう理由です。

今度は別の受験生が胴上げされています。
フラッシュが何度か光りました。

たぶんそのときの私は落ちた人に見えたと思います。アメフト部の人も近寄ってきませんでした。帰り際にすれ違ったよねGにも「落ちたと思った」と言われました。

必死で喜びを噛み殺していたわけではありません。嬉しくなかったわけでもありません。高校入試のときも確かこんな感じでした。なんとなく、釈然としない。

みんなが「おめでとう」と言ってくれるのは、そりゃもう何物にも換え難いぐらい嬉しいですよ。私だって落ちるのは嫌です。受かってよかったと思います。

しかし、同時にこんなことも思います。私はたくさんの「誰か」を犠牲にしてこの立場にいるのだ、と。そう考えると、私一人では支えきれないほどの重圧がのしかかってくるように感じます。むしろ、私なんかより別の「誰か」が受かった方がよかったのではないか、と。かっこつけて言ってるように聞こえるかもしれませんが。

もちろん私は受かるために受けたのです。そのための勉強をしたのです。落ちた人の努力が足りなかったと言えばそれまでです。

では、落ちた人のことを考えるならばその分まで自分が頑張ればいいのでしょうか。そんなこと、何の関係もないですよね。

この釈然としない気持ちに答えてくれるものはないのかもしれません。それが受験というものなのかもしれません。それとも、私は考えすぎでしょうか。

とりあえず、見間違えで落ちてるかもしれないので、入学手続きの用紙が来るまで信用はできません。

が、ひとまずお礼を言わせてください。
まず、恩師のルリPに。担任の茶菓に。
そして両親、親戚に。
最後に、応援してくれたみなさんに。
どうもありがとうございました!

とりあえず、今日からも風の王国やりますよ☆
(結局それかい!)

追記
この釈然としない思いは、「悔しさ」に近いものであることがわかってきました。受験というシステムがおかしいと反発する気持ちがありながら、それに従っている自分が悔しいのかと思いもしましたが、どうやらそうではないようです。

あと、合格通知が来たので合格は間違いないようです。

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